あんたの望みなんか叶えてやんない
これ以上悪くならないようにと包帯で厳重に縛られている己の四肢を見て、格好悪いな……と凌統は思った。 そんなケガが自分だけならまだしも、自分のせいで他人までも傷ついた事を考えると胸が痛くなる。 何やってるんだろな、と自嘲気味に呟いて、凌統は一つ、鉛のように重い溜息を落とした。 (伏兵……か) 今回の戦も、凌統は尖兵を務めていた。一番に戦うその軍は、勢いがあるほど軍全体が強くなり、また裏を返せばその軍が敗北すると戦が非常に不利になるという性質を持っている。 その軍を任されていた自分が伏兵により敗走する羽目になれば、呉軍にとって絶対的に不利な状況になるのは火を見るより明らかであり、それが今回の戦の敗北の原因になったのは紛れもない事実だった。 そんな自分を呂蒙や陸遜が必死で弁解してくれたおかげで、今の凌統には何のお咎めもなく済んでいる。 伝え切れないほどの感謝の気持ちを感じるのと同時に、悪かったのは自分なのだからそこまでしなくても良いのに、と凌統は思っていた。 自分が部下の裏切りを見抜けなかったのが悪い。 どんな処罰でも受けるつもりだったのに、悪いのは裏切った元部下なのだから部下を信じようとした凌統に非はない、と二人が強く主張したのである。 仲間意識の強い孫呉では、その理由は殿・孫権を納得させるには十分だった。その後は凌統を責めようとする他の将軍を孫権が一喝し、今に至っている。 殿にまで守ってもらうほど、自分は役に立つ人間なのだろうか。 そう思った直後に浮かんだある感情を、凌統は必死でもみ消した。 そんな事は考えてはいけない。 (もう、終わったことだ) 凌統は自分を情けなく思った。いつまでこんな感情に引っ張り回されなければならないのか。 それにしても――。 あいつに気づいたのは、黄巾の乱の時だったか、と凌統は思う。 敵方も武器を持っただけの民に等しい弱さではあるにしても、女のみで幾つもの敵将を討ち取っていくその姿は、やはり異質なものだった。しかもそれが少し前に自分の軍に入ったただの一兵卒とくれば、驚くのは当然である。 敵将撃破の掛け声で自軍の士気が上がり、それがそのまま自軍の勢いへとつながって、驚くほどの速さで反乱を鎮圧できた。その功績で孫堅に褒められた時、褒めるべき人は自分じゃなくてこいつだろ、と彼は思ったものだった。 声を掛けてみれば、戦闘中の大声は何処へやら、上官の自分と話す様子はとても礼儀正しくて謙虚。運動神経が良さそうだったから両節烈棍を与えてみたら、ものの数週間で自分に引けをとらないほど使いこなせるようになったりもしていた。 (謙虚で素直、しかも努力家ときたもんだ) 当然、位はすぐに上げた。だがそれでもあいつには足りなかったらしく、次の戦では敵総大将の董卓を討つという偉業を成し遂げたのである。 卒伯にまでなったら、上官の立場で見ていても面白いくらいに器用に伏兵を使っていた。 (呂蒙さんも褒めてたくらいだしね……) 伏兵だけではなく、拠点を火で落とす術にも長けてたか、と凌統は思う。その手際の良さは、同じく火計を得意としているはずの陸遜も見事だと言っていた。 そんな奴が自分の配下にいて、自分自身も結構気分が良かったな、と考え、凌統はハッとする。 (……やめた) こんな下らない事を考えたって自分が惨めになるだけだと思い、凌統は考える事をやめた。虚しさの詰まった瞳で、部屋の天井を眺める。 寝ようと思い、上のまぶたを下ろすと、視界の情報がなくなったせいか先ほどより音がよく聞こえた。 ふと、その耳は誰かの足音をとらえる。 自分のもとへと近づく音をただ聞きながら、罵りに来たか、それともお人よしな誰かが慰めにでも来たのか、と彼は思った。 (どっちにしろ、面倒だ) 静かに扉を開ける音を聞いても、凌統は目を開けなかった。罵りに来たのなら最後まで無視すればいいし、慰めに来たのならわざわざ休んでいる相手を起こすこともないだろう。 入ってきた人物は、しばらくそんな凌統を眺めていたが、ふう、と一つ深呼吸をしてから声を出した。 「……凌統様」 声を聞いた瞬間、凌統はぱちっと目を開けた。なぜなら、その人物はそのどちらでもなかったからである。 普段より大きく開かれた凌統の目がとらえたものは、ボロボロという表現がまさに相応しい、見慣れた女ものの服だった。 驚きの感情をもみ消しながら、凌統はその視線を持ち上げる。顔にもいくつかの赤い跡があったが、彼はそれを見ない振りをした。 クッ、と、凌統が口を笑みの形にする。 「あんたがなんでこんな所にいるんだ? あんたのいるべき場所は、ここよりもっと北のはずだろ」 冗談めかした、だが強い非難を含むその言葉に、相手の女は返事をしなかった。 相手は下唇を噛み、何かを耐えるような顔をした後、口を開く。 「凌統様……お願いがあります」 何が目的だ、と凌統は思った。これ以上面倒な事をされたのではたまったものではない。 自然と、凌統の目つきは鋭くなる。女はそれに気づいていたようだが、構わず凌統を見つめ続けていた。 「私の首を……刎ねてください」 凌統の目がほんの少しだけ見開かれたのは、きっと見間違いだ、と女は思った。 「何だって?」 言いながら、凌統は上体を起こした。先の戦で傷ついた体がそれに反応し、痛みを走らせる。 「凌統様っ!!」 女が呼ぶのを聞いて、顔に出てたか、と凌統は思った。まだまだだなと思うのと同時に、近づこうとした足を踏み留めた女のほうを見る。 「あんたがやっといて、そんな様子はないんじゃないかい?」 皮肉めいた笑みをしながら彼が言うと、相手は辛そうに目を閉じた。右手を自らの胸に当て、それをぐっと固く握る。 凌統が敗走する原因となった伏兵は、彼女の味方苦戦の情報を聞いて向かった先に配されていた。 そもそもの、味方が苦戦中という情報自体が嘘であり、凌統を伏兵に誘い込むためのものだったのである。 伏兵として司馬懿が現れたとき、女は刃をこちらに向けた――そういうことだった。 相手の苦しそうな表情を見ない振りをして、凌統は冗談を言う口調で言った。 「で、殺してくださいってのはどーいうこと? 行いがガサツで魏でも破門されたってのかい?」 そう言って、口元を吊り上げる。女はそんな凌統の顔を見ずに、俯いたまま首を横に振った。 凌統が、彼女の行いをがさつだと思ったことは、今までに一瞬もない。 「魏は、抜け出してきました……。私のいるべき所は、あの国ではなかったから……」 凌統は下らなそうに小さく笑った。 「へぇ、そりゃあ勿体無いことしたねえ。あんたの生涯で、唯一の出世の道だったのにな」 その声に、女は顔を上げた。何かの思いのこもった目が、凌統の視界に映る。 「構いません。……ここで死ぬのですから」 そういう女に死への恐怖はないようだった。強い意思を見せているその女に、だが凌統はクッと笑う。 「勝手に話進めないでもらえるかな。あんたみたいな奴の首斬ったら、俺の手が汚れるっての」 女は大きく目を開いた。凌統はさも嫌というように手をヒラヒラと動かす。 少しの間を空けて、女は息を呑んだ。 「では、私が自分で――」 「勘弁。俺の家が汚れる。あんたの死体、誰が片付けると思ってんの」 「なら、家の外で――」 「駄目だね。孫呉の地に、あんたみたいな奴の血はふさわしくない」 そう言われると、女は悲しそうに顔を歪めた。うつむき、ぎり、と小さく歯軋りする。 「……私のした罪は分かっています。それが孫呉に対してどれだけの冒涜であるのかも……。…………それでも、私は……」 女は視線を凌統のいる高さまで持ち上げた。 「私はっ……生まれ育ったこの孫呉の大地でっ……死にたいのです」 凌統は、それには何の反応もせず、そういう女の目をただじっと見ていた。 そのままの状態から、表情に何の感情の色も見せることなく、凌統は口を開く。 「あんた、いつから魏と内通してた?」 突然の質問に、女はほんの少し目を見開いた。だが、それもすぐに元に戻す。 「長くはありません。先の戦の少し前に、私の元に一通の密書が届いたのみです」 「密書ねぇ……。……まぁ、いいか」 そう言ってから、凌統は本当に気にしていないように上体を倒して天井を見た。そのままの体勢で、独り言を言うように続ける。 「どうせこれから、あんたにそんなもんは一通も来ないからな」 女はその言葉の意味が取れず、不思議そうに眉を寄せた。 「私、孫呉の地で死なせてはくれないのですか?」 凌統は、一切の感情がこもっていないような目で、相手を見た。女の胸が、どきりと鳴る。 「ああ。……あんたがこの地で勝手に死ぬことは……俺が許さない」 普段と違い、冷たく言い放つように言った凌統の言葉に、女は無意識のうちに呟いていた。 「……凌統様……」 その声は、ひどく悲しそうなものだった。 呟きを聞いてから、凌統は痛みが来ないようにゆっくりと、上半身を起こした。そしてそのまま、部屋の入口に立つ人影のほうを見る。 次に口を出た彼の言葉は、冗談か本気か分からないような、普段の声色だった。 「ま、そんなこと言わなくても、もうあんたに自由はないけどね」 その意味が、女には分からないようだった。不思議そうな顔をする相手に、凌統は歯を見せず、にぃと口元を吊り上げる。 「どうなさる、おつもりですか……?」 不安そうな顔のまま、弱々しく女は言う。その様子を見て、凌統はくす、と明るめに小さく笑った。 「なんたって、これからあんたは一生俺の家に縛られるんだからな」 女が驚いた様子を見せたのを無視して、凌統は続けた。 「しかも『凌公績の妻』っていう、厄介なことこの上ない肩書きつき。仕事は雑用ばっかだし、俺の命令には絶対服従してもらうし、自由なんてあったもんじゃないね」 その時、女の目からはボロボロと涙が溢れ出した。口と鼻を覆うように両手を添えると、その手の上を涙が伝う。 それに凌統は少し驚いたようだったが、調子を変えず彼は続けた。 「泣くほど嫌だった? でも残念、あんたに拒否権はないから」 女は俯いた。腕を伝い肘まで流れていた涙は、動きを変え目から直接床へと零れ落ちる。 いつまで経っても泣き止まない相手を見て、凌統は呆れたように言った。 「もう泣くなっての」 言われると、女は両手で涙をぬぐった。少しすると涙は止まったようだが、その目は赤い。 「了解……しました……」 嬉しさを堪えきれないというように、女はまた少し俯いて口元に笑みを作った。それを手で隠そうとする相手に、凌統は声に出さず笑う。 「側に来なよ、」 「……はい……」 寝台に近づいたを、凌統は抱きしめた。
名前変換が手紙のを合わせてたったの四つしかないという、なんとも夢のない話でした。(爆 見ての通り、4猛将伝の立志モードネタです。実際にそういう行動を起こしたとき、 なんとも凌統に申し訳ない気分になったので、それを書いてみました(何。 平成18年1月22日UP |